Profileプロフィール

生年月日
昭和54年7月16日生まれ
学歴
宮内中学校 卒業
帝京長岡高校 卒業
中央大学法学部 卒業
経歴
要職
公益財団法人 日本水泳連盟生涯スポーツ委員
特定非営利活動法人 日本オリンピアンズ協会理事
新潟県水泳連盟理事
長岡市スポーツ振興審議会委員
越後長岡応援団
資格
救急蘇生法適任者
安全水泳法管理者
7月16日に新潟県長岡市で生まれ、出生体重は3,520gでした。

地元のスイミングスクールで4歳から水泳を始める。
水泳を通じてたくさんの友だちができました。小学校に入ってからも、学校にいる時間よりプールにいる時間のほうが長かったこともあり、スイミングスクールの友だちはひとりっ子の私にとってとても大切な存在でした。
当時、仲間と一緒にスクールで泳いだことは、楽しい思い出として残っています。

小学6年生で中高生の選手コースに編入され、朝夕の厳しい練習が始まりました。
しかし、まだ幼かった私は、『なぜ、小学生の私が中高生と一緒に練習しなければいけないのか』と疑問を抱き、水泳が嫌いになり、いつしかスイミングに行かなくなりました。
コーチから電話があり、正直な気持ちを教えてほしいと言われましたが、厳しいコーチには水泳を辞めたいとはいえず、肉体的に厳しいバタフライではなく、とっさに出た言葉が「背泳ぎをやらせてほしい」でした。
中学1年生の冬に出場した大会の年齢別50mで1位になると水泳に向かう気持ちが大きく変わってきて、表彰台に立つ爽快感を知りました。

15歳で日本選手権大会100m背泳ぎ優勝。自分なりに努力した結果だったため、素直に嬉しい気持ちでいっぱいでした。
しかし、ローマで開催された世界選手権大会に日本代表の一員として臨むが、残念な結果に。しかし、この経験は貴重な体験となりました。
次こそは世界に通用するようにさらなる努力を重ねました。


高校2年生のとき、初めてのオリンピック(アトランタ五輪)に出場。結果は4位でメダルを逃します。
当時のベストタイムで泳ぐことができれば3位に入ることができたため、とても悔いが残りました。
次回のシドニー五輪では絶対にメダルをとりたいと願い、水泳の科学的トレーニングで知られる中央大学に進学することにしました。
中央大学では奨学金を受けられず、経済的負担が大きいものでしたが、母は快く送り出してくれたことを感謝しています。
また、中学時代に、激励会や壮行会で多くの方々が資金面でご支援してくださったことも、心より感謝しております。



科学的なトレーニングと幼い頃からのコーチの指導のもと、大学3年生でシドニーオリンピックに出場。
メダルを取りに来たオリンピックだという意識もあり、とにかく緊張し続けました。特に、予選が始まって決勝を迎えるまでの2日間は、興奮してほとんど眠れませんでした。
緊張が続き、不安が募る中、選手団に同行していた栄養士さんから「横になって目をつぶるだけでも十分休息になる」とアドバイスを受け、気持ちが落ち着きました。
その結果、100m背泳ぎ決勝で実力を発揮し、惜しくも金メダルには届かなかったものの、銀メダルを獲得することができました。
悔しさもありましたが、オリンピックという大舞台でベスト記録を出せたことは大きな自信になりました。
帰国後、世間の注目の変化を実感しました。しばらくは人目を気にする生活が続きましたが、時間が経つにつれ、金メダルを逃した悔しさが募り、次のアテネオリンピックを目指す決意を固めました。




大学卒業後、スポンサー企業の支援を受けプロスイマーとなり、地元・長岡でトレーニングに専念しました。
しかし、プレッシャーが表にでてしまい、結果として代表選考会で実力を発揮できず、日本代表の座を逃しました。
金メダルへの執着が自身を追い込み、結果的に敗北を招いたことを痛感しました。


水泳を辞めることも考えましたが、オリンピックの話題が溢れる中、選考レースのことが頭から離れませんでした。
2週間後、母の勧めで帰郷しましたが、プールには行かず悩み続けます。そんな時、テレビでサッカーの川口能活選手の特集を見て、「真のアスリートの負けは、闘いを止めることだ」という言葉に心を動かされました。
自身の悔しさを認識し、「思う存分泳いで納得した形で終えよう」と決意。
プライドを捨て水泳を楽しむことを再確認し、数カ月ぶりに練習を再開。
しかし、練習開始から1カ月も経たないうちに、新潟県中越地震が故郷を襲うという試練に直面しました。
震災時、家にいたものの、食べかけのゼリーを持ったまま外に飛び出し、家族には大きなケガがなかったものの、ライフラインが断たれ、3日間車中で過ごしました。
クラブのプールも大きな被害を受け、練習の再開を心配していましたが、全国からの応援や励ましのメール、救援物資に支えられ、人とのつながりのありがたさを実感し、気持ちを奮い立たせて困難を乗り越えることができました。
震災後、多くの人々の励ましを受け、人とのつながりの重要さを感じ、地元の人々に何かできることはないかと考えました。
最終的に、水泳を通じて地元に貢献することを決意し、プールが修理された後は練習を再開。日本代表時の厳しいメニューから、地元の中高生と一緒に泳ぐ楽しい練習に変え、充実感を得ました。
震災後の新たな目標として、2005年の日本選手権大会出場を目指すことで、地元の人々に勇気を与えることができるのではないかと考えました。
日本選手権大会で、50m背泳ぎの決勝に進出しました。震災を乗り越えた経験が、レースへのプレッシャーを感じさせず、逆に力を発揮する源となりました。
スタート直前、勝利の可能性を感じつつも、負けるかもしれないという思いもありましたが、レースでは他の選手を圧倒し、優勝と日本代表の座を奪取しました。
この勝利は最も嬉しく、表彰台で涙を流すほど感動しました。
水泳を一度は辞めようと思ったものの、震災を乗り越えた復活劇は、多くの人々に勇気を与えることができたのではないかと思います。


震災を乗り越える中で、多くの人々からの励ましを受け、人との結びつきの重要さを実感し、地元の人々を応援したいと考えました。
水泳を通じて自分にできることを見つけ、2005年の日本選手権大会で50m背泳ぎで優勝、世界選手権への出場権を獲得しました。
もう少し挑戦したい気持ちが芽生えましたが、肩の痛みが続き、2007年の世界選手権大会を最後に引退を決意。
水泳に関わり続けたいと考え、日本体育協会の依頼で全国の小学校で水泳を指導しました。最初は子どもたちが興味を示さなかったものの、自身が泳ぐデモンストレーションを見せると、子どもたちは真剣に取り組み、泳げなかった子も懸命に泳ごうとする姿に感動しました。
この経験から、指導者の仕事に大きな関心を持つようになりました。
水泳の楽しさや体を動かすことの楽しさを子どもたちに伝える方法を考えながら指導に取り組みました。
指導を通じて、人と人とのつながりの大切さを伝えることも目指しており、震災での経験を活かして子どもたちに多くを教えたいと考え、全国のスイミング教室で指導しつつ、講演活動を行ってまいりました。




新潟の
元気だ!
Policy政 策
人生100年時代へ!
より身近に、より気軽にスポーツ・文化にアクセスできる体制整備を進めます
それぞれのライフステージ、ライススタイルに合わせた健やかな心身を創って豊かな人生を送れるように環境整備に努めます
部活動の地域移行が地域を問わず円滑に進むようにこれまでのキャリアを活かして取り組みます
所得倍増計画!
若者の所得UPと、設備投資や人への投資で経済の好循環を生み出します
良質な雇用機会拡大で働く世代を応援します
インフラ整備で地場産業活性化、物流促進で産業育成を図ります
新潟の食を日本に、
そして世界に発信!
新潟の農林水産業は「新潟の宝」!自慢の新潟の食が輝くように取り組みます
「儲かる農業」で生まれた美味しい食材が日本の、世界の隅々まで届くように流通を整備して輸出を促進します
食を軸とした観光推進で日本から世界から「訪れてよし」の新潟を目指します
元気でいきいき暮らす
必須条件!
豪雪、地震など新潟は災害多発地域。まずは災害に強い地域づくりに取り組みます
地球温暖化で激甚化する災害防止のため国土強靭化を推進します
拉致問題の啓発普及、被害者の早期帰国に尽力します
どこに住んでも幸せな日本、
そして新潟!
医療・福祉の充実、遠隔地医療、訪問看護・介護体制の整備に尽くします
持続可能な健康保険の仕組みや年金受給体制の安定化を目指します
中山間地を守ることは地域全体を守ること。鳥獣被害対策やインフラ整備を推進します
新潟の希望!
子育てをさらにしやすくするために産休・育休制度と男性の育児参加をパッケージ化して推進します
幼児教育、保育の一層の充実を目指すために、子育て現場で働く皆さんの待遇改善、子ども園などへの支援の拡充を図ります
教育環境の充実のため、大学、専門学校等、小中高の各段階での教員給与の向上、働き方改革を支える制度の充実に邁進します